匈奴といえば中学校の教科書にも登場した有名な遊牧騎馬民族ですね。
BC5世紀からAD5世紀のながきに渡ってモンゴル高原を中心に発展した
との事です。ただ民族的にモンゴル系だったのかテュルク系(トルコ系)
なのか未だに判明しない謎の部分もあります。むしろ彼らは自分達のこと
について残さなかったらしく当時を知るのは殆どが中国の文献からのようです。
また彼らはスキタイの騎馬技術や武器といった文化を取り入れて非常に
強力な民族になっていったようです。そして中国の記録ではBC3世紀頃(
戦国時代末期)の趙国の記録に出てきたとの事。趙国に侵入して戦った
ようです。それ以降度々匈奴は中国に侵入します。
アバウトな図 その1
まあ、こんな感じでしょうか?
中国が秦の始皇帝によって統一されても彼等の侵入がおさまることは
なかったようですね。始皇帝が蒙恬を大将に北伐を敢行し、一度は
匈奴を北(ゴビ砂漠以北)へ追い返すことに成功しますが、始皇帝没後は
再び侵入してきます。始皇帝といえば「万里の長城」が有名ですが、
あれは始皇帝が造ったものではなく、戦国時代の各国が造ったものを
始皇帝が繋いだわけですね。しかも北への備えだけが目的だったわけ
ではなく各国が国を囲う形で作ったらしく、始皇帝は北への備えとして
使える部分を残しあとは撤去したとの事。まあ、そんなこんなで「漢」が
成立するわけですが、まだまだ匈奴は勢い盛んで度々侵入してきます。
この時期に匈奴史上最も勇敢な族長(単于)である冒頓単于が出てくるのです。
漢を建国した劉邦も大軍を北へ差し向けますがあっさり負けます。
当時の漢は人口6000万人と言われています。対して匈奴は全土でも
200万人足らずといったところで国力としては比較にならないわけですが
いざ戦になると漢は圧倒されっぱなしだったようです。しかもこの時の
敗戦で屈辱的な和議となったらしく、貢物はもとより兄弟の契りを結ぶ事に
なったわけですが、「匈奴が兄で漢が弟」だったらしい。キー!悔しい!
って当時の漢人達は思ったことでしょう。なにせ当時の中華人達は自分達
の文化が一番優れていると自認してたそうですから。この冒頓単于は
メチャ強かったらしく、匈奴の北方にいた(さらに北ったらバイカル湖付近?)
丁零(ていれい)・堅昆(きるぎす)を従えて、さらに月氏を西へ追いやって
シルクロードを支配するまでに至ったのですから広大な支配地域だったんですね。
アバウトな図 その2
まあ、こんな感じでしょうか?
しかし!!漢も負けてはいませんでした。武帝の時代に名将衛青・霍去病(カクキョヘイ)
が活躍し、匈奴を破り再び北(ゴビ砂漠以北)へ追い返します。これで匈奴は大打撃
を受けたらしく急激に衰退していく事になります。なんたって十数万人がこの一連の
戦いで失われたんですから、簡単には立ち直れないでしょう。で、その後BC56年
頃らしいですが、匈奴は東西に分裂し、東匈奴は漢に臣従し、西匈奴はBC36年に
西域都護府の攻撃を受けて滅亡したとの事。東はその後再び漢と戦いこれを破って
いますが、AD48年頃に今度は南北に分裂しました。で、やはり漢に近かった南は
漢に降伏したようです。まあ、その後三国時代を経て、五胡十六国時代の主役に
なったのは南匈奴の子孫なのですが。。。
で一方北匈奴はといいますと、その後も南匈奴・漢(後漢)と戦いますが、AD91年頃に
漢の攻撃と鮮卑族の圧迫を受けてモンゴル高原からも追い出される事になり、イリ盆地まで
追いやられて滅亡への道を辿ります。といいますか、これ以降の匈奴の記述がなく、
歴史から姿を消しているのです。
南北分裂後のAD2世紀付近のアバウトな図 その3
こんな感じですね。
その後彼らは西へと移動したとされています。そしてフン族となり民族大移動の発端と
なったようです。まあ、匈奴=フン族って確証はないんですが、身体的な特徴や、
言語(アルタイ語系)を加味するとたぶんそうだろうといったところのようです。そして
なにより匈奴の事を「フンヌ」と呼んでたそうですから。。。その後彼らは一気に西へ
行ったというよりは、周辺民族と混ざり合いながら行ったんでしょうから、純粋な匈奴では
なくて、匈奴を起源とする新しい民族といってもいいかもしれないですね。どっちにしても
それがゲルマン諸族を大移動させ、ローマ帝国を崩壊へ導いたのですから歴史って
すごいですよね。言ってみれば「民族ビリヤード」状態ですよね。ということはキューは
後漢と鮮卑族ってことになるか・・・
人口6000万の漢と200万の匈奴、国力を単純比較すれば圧倒的に漢のはず、しかしながら
戦においては常に匈奴が圧倒していたのはナゼなのか?
→優れた騎馬技術を持ち、人口に対する戦闘員の割合が高かった!?
優れた騎馬技術というのは冒頭でも書いたようにスキタイ文化の影響ですね。
それと、遊牧騎馬民族の男子は大半がそのまま騎兵として戦えたのではないでしょうか。
その点、中国は新たに騎兵の訓練を施さなければならないわけでその差が戦果として
現れたのではないでしょうか。
→純粋に機動力が違いますよね
騎兵と歩兵、後世の歴史が物語りますがやっぱり騎兵の方が有利でしかも移動の
速度・距離共に歩兵とは全然違います。あと、農耕民と違い、確たる拠点が無い為、
不利になったら一族ごと移動できるのも違いますよね。
→ヒットアンドアウェイ??
騎馬民族の侵入は目的が略奪だったらしいので、敵地に長居することはなかったらしいです。
とりあえず侵入して、略奪したら帰るような感じですか。敵軍がやってきたらさっさと撤退。
機動力が違いますからまず追い付かれなかったでしょう。
【 当時の軍勢 】
匈奴の軍勢は基本が騎兵でした。騎馬民族ですから当然ですね。ただ、騎士や武士の
ように接近戦専門の重装騎兵ではなく弓を持った軽騎兵だったようです。中央アジアの
騎馬民族の騎兵って殆どが弓騎兵なんですよね。まあ、狩猟の延長上に戦があったのかも
しれないですね。
対する中国軍は歩兵と戦車兵が主力だったようです。戦車引く馬に乗ればいいのにって思う
でしょう。私も思います。でも当時の中国の軍装って騎乗に適してないんです。
スカート型というか、ガウンっていうか、そんな形の鎧だったんで馬に乗れないんです。で!
戦国時代の趙の武霊王が「胡服騎射」を発令し、騎兵の育成を始めたのです。胡服騎射とは
騎馬民族の服装をして馬に乗って弓の練習をしなさいって意味で、要するに彼らのように
弓騎兵になれという事ですね。かなり反発があったようですが(なにせ昔から自分達の文化が
一番と思う民族ですから)2年かけてようやく育成が開始されたとの事です。三国志に出てくる
服装も、このとき趙の武霊王が胡服騎射を発令しなければガウン型の鎧でみんな徒歩で
戦ってたかもしれないですね。それだけ中国の軍事史における大転換点だったようです。
匈奴古代遊牧国家の興亡
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モンゴリアを中心に強勢を誇り、秦漢帝国と攻防を 繰り返した騎馬遊牧民族・匈奴その勃興から 分裂・衰退までをたどり、古代遊牧社会の実態を 解き明かす。 |
江上波夫文化史論 |
匈奴の歴史のみならず、文化についても深く 書かれた一冊です。 |
匈奴帝国 |
たぶん匈奴について書かれたと思いますが、 どこ探してもレビューがないんです。 |
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