モンゴル(蒙古)のよる中国征服

【 モンゴル侵入直前までの中国の情勢 】

直前と言うほど直前ではないですが、モンゴル高原でスッタモンダやってた頃、

中国は南北に2つの国がありました。北部、中原から華北にかけては女真族

が建てた「金」があり、南部、長江以南には金によって南方へ追いやられた

宋(南宋)がありました。この2国は互いに激しく戦火を交えたり講和したりと

常に南北は緊張状態にあったようです。

【 モンゴルの侵入と金の滅亡 】

金とモンゴルは言い難い微妙な関係だったのではないでしょうか。

金はモンゴルの統一を妨害すべく離間の策を仕掛けたりしながら

一方で、北方の乱を鎮めるのにモンゴルの助けを借りたりもしてます。

しかし、そんな関係は金7代目衛紹王の時にチンギス・ハンが朝貢

を拒否し、断交することで終わりを告げます。

それと同時に1211年、チンギス・ハンは自ら金に侵入します。

この戦いで金は敗北を重ね、7代目衛紹王は配下の武将胡沙虎に

よって殺されます。しかし、その胡沙虎も殺され、国内は混乱。

結局、その後即位した宣宗が衛紹王の娘をチンギス・ハンに嫁がせる

ことと、今度は金からモンゴルに貢ぐことを約束して講和することになります。

さて、一旦は講和するものの、1年後再び金へ侵攻します。

その辺の事情は金のページで書きますが、この侵攻でモンゴル軍は

女真族の故国である東北部も含む黄河以北の大部分を手に入れ、

金を河南の開封まで押し込みます。

チンギス・ハンの死後、2代目オゴタイ・ハンは再び侵攻を開始、

1234年に開封を包囲・攻略し、金9代目哀宗は一旦は脱出し、蔡州を

目指すが、モンゴル軍と南宋軍に挟まれて自決し、金は滅亡する。

この段階で、長江以北までモンゴルの勢力圏となった。

【 モンゴルの侵入 金の次は南宋 】

モンゴルと南宋の接触は金を挟撃した頃からでしょう。

金滅亡後、モンゴル軍は一旦北へ引き上げます。しかし、その後南宋が

開封や洛陽を北上して手に入れたことから再びモンゴル軍は南下。

4代目ハンであるモンケ・ハンが南征軍を率いて南宋を攻撃。

しかし、モンケ・ハンは遠征中に病没しモンゴル軍は一度引き上げる。

5代目ハンを巡ってフビライとアリクブケが争い、結局フビライが5代目ハンに

就くことで収まる。

ハン就任後、フビライは再び南征を行う。この時点で南宋の国力は低下

しきっていて、さらに南宋の独裁者賈似道(かじどう)が前線へ援軍を

送らなかったこともあって、南宋軍は敗北を重ね、賈似道は失脚。

1276年首都臨安が陥落。張世傑・陸秀夫が皇子を連れて?山に篭り

抵抗するものの3年後の1279年に陥落し、南宋は滅亡しました。

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鐙(あぶみ)が無いので古代のヌミディア騎兵ですね