● 先陣を切った国の先駆者 ●
ポルトガルのエンリケ航海王子は1415年にセウタを攻略後、航海学校を設立し、
多数の航海者を輩出していきました。彼自身は航海には出ていませんが、航海王子と
称されるのにはこうした理由があります。
また、セウタ攻略も南方の海へ向かうと言うよりは、当時セウタはアフリカ産の金の
集積地でしたが、ポルトガルはセウタで金が取れると思っていたそうです。そこで
セウタを攻略したのですが、攻略後、金はセウタへ集積されなくなったのであまり意味の
ある戦争にはならなかったそうです(しかもこの戦には全人口の10分の1に当たる
20万人が動員されたとか)
しかし、その後ポルトガルは南下を続けます。1434年には越えたら最後戻れないと
信じられていたボジャドール岬を越える事に成功。さらに10年後の1444年には
セネガル付近(アルギン)に達します。
そして1473年には航海者フェルナン・ゴメスが遂に赤道を越える事に成功する
のです。その頃ドイツは未だ実質分裂状態で、しかも自由都市同盟のハンザ同盟は
衰退の一途を辿っていき、イタリアも国内勢力と外国勢力(ノルマン人等)の混在で
一部の北部都市以外は混沌としていたようです。
エンリケ王子はその一生を新航路開拓へ捧げた事でも有名です。サン・ヴィセンテ岬
に居を構え、設立した航海学校では人種を問わず様々な人を招聘し、地図の作成から
船の研究に至るまでを研究し、多くの航海者を世に送り出したようです。その中には
ムスリムもいたというのですから新航路開拓というスローガンは文字通り全ての壁を
越えたと言う事でしょう。かの王子が66歳で没するまでにポルトガルには航海に関する
多くのノウハウが蓄積され、それらがその後の航海の基礎となりました。コロンブス等
後の航海者達の多くがポルトガルで航海について学んでいた事がエンリケ王子の功績
の大きさを物語っているのではないでしょうか。
自らは航海には出ていませんが「航海王子」と呼ばれるにはふさわしいでしょう。