ポルトガルが着実に海洋帝国への道を進んでいる頃、
スペインではイスラム国家との戦い(レコンキスタ)が
続いていました。スペイン南部アンダルシア地方に
残っていたイスラム国家ナスル朝と戦いながら、モロッコ
のマリーン朝の侵攻を退けるなどけっこう激戦だった
ようです。この時期にコロンブスは一度ポルトガルへ
西回りでインドへ行く提案をしますが却下されています。
まあ、ポルトガルは東回り航路を確立させつつあったのと
新たな航路開拓へ注ぐ資金が無かったようです。
なんでも南方への艦隊派遣の費用を王室予算でも
賄えなかった時期もあったらしいです。そんな訳で
コロンブスは話をスペインへ持ち込みます。しかし、その時期は
まだレコンキスタの最中でそれどころでは無かったのでスペインも
首を縦には振らなかったそうです。
そして、1491年にグラナダが陥落し、イベリア半島からイスラム
の勢力が無くなった時、スペインはコロンブスへの援助を決定
します。同年8月に3隻の艦隊で西を目指したのです。
コロンブスが一度帰国した後に第2回遠征に出るのですが、最初は
3隻だった艦隊が2回目は17隻の艦隊で1000人以上が西へ
向かったと言います。それだけスペイン王家の期待が高かったの
でしょう。その後、多くのスペイン人がアメリカ方面に向かいます。
それはレコンキスタが終わって兵役が無くなり、失職した人々が
多くいたのも理由に挙げられます。彼らはコンキスタドールと呼ばれる
征服者として乗り込み、現地に大きな傷跡を残します。まあ、彼らの
多くは現地で非業の最期を遂げているのですが。。。